銀河劇場で 藤城清治の影絵劇「銀河鉄道の夜」をみる機会がありました。
そのなかで、さそりの話、しっているひといるかな。銀河鉄道の夜では有名なエピソードですよね。「多くの人々のためなら、よろこんでこの身を捧げましょう」とさそりは言って、火の中で焼かれてしまう。
多分にキリスト教の価値観を含んでいる、ある面で素敵な、ある面で危険をともなうことば。三浦綾子の塩狩峠でも、人々に身を捧げていった主人公の死があった。死を美化することの危険性と、隣人愛の尊さ。
ときには愛国心と死をあおり、いっぽうで公平分配の考えを生み出した。パトリオティズムとその対極ともいえる分配主義。ひとつの分岐点から、大きく道がわかれていくのだなと。
子ども連れのお父さんお母さんが、うんうんとうなづきながら観ているのを、よこで眺めていて、このフレーズをどのように彼らがとらえているのだろうかと、わたしは思いをめぐらせた。あなたは、あなたの子の死を人々に捧げてほしいと思いますか。それは、戦場を意味するのでしょうか、それとも沈みゆくタイタニック号の上で、数少ないボートに母と赤子を残し、海に身を放り出すことでしょうか。
わたしが、教壇に立つことに苦しみはじめたそれとも一致する。「多くの人々の役に立つひとになりなさい」このひとことは、戦場で死を選ぶことを意味するのか、進んでひとに道を譲ることを意味するのか。競争や争いの放棄を意味するのか。わたしにはわからなくなった。
たったひとことが、ひとの道をあやまらせるかもしれない。
わたしの子ではなくて、だれかの子を死にむかわせてしまうのかもしれない。
その一方で、「あなたが勝ち取りなさい」「勝ち抜きなさい」というのも簡単。朝の満員電車で、我先にと走り抜ける人々、ひとを突き飛ばし、にらみつける人々。個がアトム化し、ひととひとがちりぢりになっていく。
価値観がひとを苦しませている。わたしを苦しませている(?)。答えなんてみつからないのはわかっている。ときおり、わかったような気になるときもある。でもそれは、ほんのひとときにすぎない。この逡巡におわりはないのだろう。
このさそりのように生き、死ねたらいいのにと、もしわたしが言えば、きっと多くのひとはいうことでしょう。「はやく死ねよ。」 生きるのも難しいが、捨てるのもかなり難しい。