獄窓記と累犯障害者

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 先日、元衆議院議員山本譲司氏の著書 『獄窓記』(新潮社) 『累犯障害者』(ポプラ社)を読みました。話題になった本なのでみなさんもご存知かもしれませんね。
 どちらも法を犯した障害者「触法障害者」についての本だと思ったのですが、とくに『獄窓記』のほうは、 どちらかというと刑務所の内情や検察など、司法・行政全般を記した、という感じです。
 『累犯障害者』のほうが、より障害者の犯罪環境にフォーカスしています。「ろうあ者だけの暴力団」「親子で売春婦の知的障害者」 「障害者一家による障害者の監禁致死事件」などの事件の裏側にある障害者のおかれた生活環境を分析し、社会環境の改善を訴えています。
 
 また、「生まれつきの聴覚に障害をもった方」と「あとから聴覚に障害をもった方」の言語認識や考え方の違いについても説明しています。 「生まれつきの聴覚障害者」にとって、私たちの話す日本語は、「外国語」にすぎない。そのため、健常者の使う手話は、日本語をもとにしているため、 ほとんど理解できないということです。ひとつひとつの単語も学習によって身につけているので、認識語彙のレベルにも差があり、発想にもかなりの差があるという。
 (でも、悪いことばかりじゃないと思うんです。私が大学の数学科にいたときに聞いた話では、 盲目の数学者が7次元まで認識できたといいます。3次元空間への固執がないぶん、多次元を認識できたのでしょう。)
 この認識の差が、裁判でも聴覚障害者に不利にはたらくとのこと...。
 ほかにも、ろう学校での教育方針が社会への順応にマイナスに働いているのではないかとの指摘がされています。(私の記憶が正しければ) 口話法の獲得にほとんどの時間が費やされ、知的教養やリテラシーの涵養がやや軽いのではないか、と筆者はいいます。
 (今日は時間がないので、ここまでにとどめます。みなさんの感想もお聞かせいただければ幸いです。)

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このページは、Masahiro Ohkuboが2006年11月 4日 04:03に書いたブログ記事です。

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