送り手の論理
デジハリの通信講座と、もういっこの学校(なまえは伏せるけど・・)とを見比べて、前者のほうに「送り手としての情熱」を感じた。
わたしはこういうのに弱い。
編集者でも、教師でも、「送り手の論理、教える側の論理を押しつけてはいけない」という鉄則がある。でも、「送り手の情熱」があるからこそ、ときとして身勝手な押しつけになったりもする。
その身勝手な押しつけは、ときとして生徒、ときとして消費者(読み手、聞き手・・)にとって、うっとおしく、無価値だったりすることもある。親と子だったら、親子げんかの元になったりもする。
でもそれは、人間が人間であるがために生じる、意思疎通の失敗、試行錯誤ともいえる。
相手を思いやることが、ときとしておせっかいになったりすることはある。
まあ、逆に、思いやりすぎて、近寄れなくて、そのまますれ違ってしまうこともある。
ただ、こと教育に関していえば、「相手の懐に飛び込めない」というのは教育者の敗北といっていい。相手の心臓をわしづかみにするくらいの情熱は、強くもち続けていい。
そのくらいの気持ちがなければ伝わらないものだ。
たしかに例外もいっぱいある。あんまり手取り足取りやってあげれば、甘やかしてしまうこともある。ガミガミ言ってしまえば、ノイローゼになってしまうこともある。
でも、思いは、何かの形で伝えなければ、伝わらないで終わってしまう。
それはぜったいに、生産者と消費者でもおなじだ。
送り手と受け手でもおなじだ。
伝えるべきことは、伝えなきゃ。
やっぱり気持ちは伝えなきゃ。