シティズンシップ教育に対する勘違いの数々
ここ数年、「シティズンシップ教育」と称する題目の書籍が数多く出版されてきた。また、「シティズンシップ教育」の普及をうたった活動をしている団体や活動家も増えてきた。
でも、多くはシティズンシップ教育そのものをよくわかっていない。
あまりに顕著なものとしては、シティズンシップ教育を政治教育や有権者教育と勘違いしているもの。これは、アメリカや日本で行われてきたシビック・エデュケーションのことを指す。国家の制度に対する知識などを中心に学習するもので、福祉国家や「国家」そのものの存在が前提にある。
いっぽうでシティズンシップ・エデュケーションはポスト福祉国家における「グローバルかつローカルな社会」のあり方を前提としている。新しい公共や、国家や地域の分裂や統合といった、これまでにない社会の枠組みのなかで、個々がどのように生活すればよいかを模索するものだ。「参加の教育」は、「政治参加」(狭義の社会参加)ではなく、広義の社会参加を意味するものをいう。
わが国の「政治教育NPO」の多くは、従来の「公民教育」の枠組みといってよい。ただ、かれらは「生の教育」や「アメリカのような教育」をめざしていたり、ときには「政権交代できる基盤づくり」であったりもする。
「政治教育」になぜ、NPOがかかわるのか。公教育がなぜ「政治教育」を行うのか。このあたりの位置づけを明らかにしなければならない。
そして、「政治教育」だけであれば、「シティズンシップ教育」の冠は必要ないのではないか・・・。