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自分を人間らしくあらしめるのは

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「竜太、人間が人間として生きるというのは、実に大変なことだなあ」
 竜太は涙をこぼしながらも、先生の言葉にしっかりとうなずいた。
「竜太、人間はいつでも人間でなければならない。獣になったり、卑怯者になったりし
てはならない。わたしはこの度ほどそう思ったことはないよ。竜太、苦しくても人間と
して生きるんだぞ。人間としての良心を失わずに生きるんだぞ。竜太のこと、わたし
は忘れたことはない。いつも心配している。わたしは竜太を信じているし、竜太もまた、
わたしを信じていると思う。竜太がなにを言った、かにを言ったと、刑事たちは出たら
めをいう。おそらく竜太にも、同じ出たらめを言っているにちがいない」

                    ・・・・・・・・・

 「しかしな、竜太、どんな時にも絶望しちゃいけない。四方に逃げ道がなくても、天に
向かっての一方だけは、常にひらかれている。やがて検事が調べ出すと、われわれの
無実がわかる筈だ。裁判長は必ず公正な裁判をしてくれるに決まっている。わたした
ちの生まれた日本の国は、信頼できる筈なのだ。まさか無実の者を有罪とするわけは
ない。わたしは一度だって、政治的な意図を持って君たちを唆(そそのか)したことも
なければ、実践させたこともない。わたしが無実な以上、君が無実なのはむろんのこ
とだ。頑張ろうな、竜太。絶望してもいい。しかし、必ず光だけは見失うな」
 憑かれたように坂部先生は竜太に言った。それは正に、今言わねばならぬことを今
言っているのだという、坂部先生の覚悟のほどがうかがわれる語調だった。

                    ・・・・・・・・・・

 「先生、先生は逆さ吊りにされたのですね。それでも先生は、自分を投げ出すことを
しなかった。ぼくは恥ずかしい。ぼくは自分を投げ出していたんです。もう何もかも、い
やになっていたんです」
 「同じだよ、竜太。自分がこんなに弱い人間であったかと、何度自分に愛想が尽きた
ことか。しかしね竜太、自分にとって最も大事なこの自分を、自分が投げ出したら、いっ
たい誰が拾ってくれるんだ。自分を人間らしくあらしめるのは、この自分しかいないんだ
よ」
                    ・・・・・・・・・・
 
「先生、先生は強いですね。そんなに痩せるほど拷問を受けて・・・」

「いや、弱いから竜太にこんなことを言っているに過ぎない。人間は弱いものだよ。

弱くて卑怯なものだよ。しかし、その故に、人々が節を曲げることがあっても、

責めてはいかん。自分をも責め過ぎないことだ」

「銃口」
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 あの『塩狩峠』の三浦綾子の作品です。『銃口』はNHKのドラマになったものなので、
御存知の方も多いと思います。

 主人公北森竜太は北海道の炭坑町、空知郡幌志内 の小学校で教壇に立つ。しかし、
竜太とその恩師坂部久哉は治安維持法違反の容疑で旭川の警察署に勾留され拷問を
受ける。上の会話は、その坂部との10分間の面会 で交わされたもの。

 ドラマの設定になっている当時は、治安維持法下にあり、戦争を反対するような内容を
教室で教えることは許されませんでした。北海道の教員を中心に行われた「綴り方運動」
では、子供たちに自由に思ったことを作文に書かせていましたので、それが治安維持法に
引っかかり、多くの教員が逮捕されたのです。

 この抜粋だけでは、なかなかその雰囲気は伝えられませんが...。

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